「KU的醸すin城崎」のインストール方法とストレンジシード静岡2023への接続方法に関する考察

text by Mirai Moriyama

インストールの仕方

インストラクション(指示書)は空間そのものをアート作品とみなすインスタレーションを再現するために存在しているものである。

よって、指示書の通りに作品を組み立てていけば、作者の意図した作品がどこででも再現できるということになる。

しかしながらこのインストラクションにも問題がないわけではない。

展示空間の大きさや構造が違えば、あるいは国や環境も違えば、ただインストラクションに従って作品を作っても、オリジナルの作品と全く同じものが生まれるわけではないということになる。

したがって、展示の基本コンセプトは変わらずとも、その場所や空間によってインストール方法はアジャストされるべきであると考える。

ストレンジシードへの接続

「醸す」というワードをもとに、集団として、コミュニティを形成するために「待つ」あるいは「受け入れる」というコンセプトに展示作品を城崎で立ち上げたと仮定する。

城崎では9つの作品をそれぞれに立ち上げて、それらを一つのインスタレーションとして構築した。しかし前述した通り、場や環境が変わればアジャストメントが必要になる。今回のストレンジシード静岡(以降、SSS)でのインストールに際しても、このフェスティバルが掲げているコンセプトに沿いながら、元からあるインストラクションとSSSがどのように接続されるのかを改めて考える必要があるだろう。

まずはSSSの企画書からワードを抜粋する。

・屋外での公演/街を劇場に

・場所と結びついた体験と発見

・奇妙な種をまく

「屋外での公演/街を劇場に」

に関しては、城崎で配置した9つのインスタレーションを静岡に再配置することで接続可能となる。その場所を今回は人宿町とした。

「場所と結びついた体験と発見」

に関しては、そもそも体験型のインスタレーションパフォーマンスである「KU的醸す」を人宿町の歴史や文化に紐づいた作品として再接続することは可能かもしれない。

「奇妙な種をまく」

醸すという行為は、物質が無機質なものになるための「分解」の過程に過ぎない。

腐敗であれ発酵であれ、分解を続けた結果、最終的には無機物になり、それは植物のための栄養素となる。

どういった素材がどのような発酵/腐敗を経て土になるかによって、植物にとっての土壌の良し悪しは左右されることになる。

「屋外での」「体験と発見」を生み出すためには、人宿町を土壌とするべきか、「醸す」を経たきゅうかくうしおがそれぞれ発酵を促す素材となり、発酵/腐敗の後の土壌となるべきなのか。

「奇妙な種」とは何か。「奇妙」という言葉は誰の目線から呼ばれるものなのか。

外からやってくるきゅうかくうしおは、それだけで静岡の人々にとっては「奇妙な種」と呼べるかも知れない。

あるいはきゅうかくうしおにとって「奇妙」≒ 「魅力的」に映る人宿町に存在している人々もいるだろう。そういった人たちを「種」として扱うこともできる。

きゅうかくうしおにしか生み出せない土壌に、観客/人宿町の人々という名の「奇妙な種」が蒔かれるのか、「奇妙」なきゅうかくうしおという「種」が観客あるいは静岡(人宿町)という土壌に蒔かれるのか。

人宿町とは

東海道を通る人々の宿場町として栄えた人宿町は、参勤交代制が始まると宿屋は伝馬町に移り、人宿町は職人のまちとして発展していく。

「人情ストリート」がそのまま東海道の名残である。

さらに戦後、昭和20~50年代の七間町も含めた人宿町のあたりは「静岡東宝会館」「静岡東映」「オリオン座」「有楽座」など十数館が立ち並ぶ、全国でも珍しい映画街として賑わいをみせていたそうだ。

宿場町、職人の町、映画の町、いずれにせよ、いつの時代においても人宿町は静岡という街にとってなくてはならないものだったことがわかる。

そして、現在は若者の街として活気のあるスポットとして存在している印象だ。

変遷はあるものの、その時その時の流れを受け入れて、常にアクティブな場所として存在し続けている人宿町。

そう仮定した時に、きゅうかくうしおは「KU的醸す」をどのようにここにインストールするべきなのか。

「醸す」をキーワードにリサーチを進めた城崎では、「分解者」としての性質が強かったように思われる「KU的醸す」。

そこで、人宿町を「土壌」あるいは分解されるべき対象とし、きゅうかくうしおが「分解者」として仲介し、観客が「奇妙な種」として人宿町に蒔かれる流れが自然なのではないかと仮定してみる。

ポストコロナの考え方

“コロナ禍で人との交流や物流が停滞した結果、さまざまな場所で物理的にも精神的にもローカリゼーションが進行した。グローバリゼーションで全てが高速で進行する世界から一転、自分たちがいる場所に立ち返り、そこで何が起こっているのかを見つめる時間へと唐突に移行した。”

ポストコロナの時代において、世界はどのように動くべきなのか。

例えば、日本に訪れる観光客は以前の賑わいを取り戻そうとしている。が、コロナの時代を経て、停滞/発酵という概念を持った(と仮定した)現在、かつてのグローバリゼーションに単に戻るべきか否かで不思議なノッキングを起こしている(べき)のではないか。

どのようにローカルを見つめ、グローバルに展開していくべきなのか。

この3年間に起こった事象を踏まえたアクションを起こせるかどうかも、パフォーマンスの鍵になるだろう。

観客を「奇妙な種」だと仮定してみる。

「分解」を促すきゅうかくうしおという仲介者が、人宿町に生息し、分解→発酵/腐敗→無機物である土壌へと誘い、その土壌に蒔かれた「奇妙な種」に光が当たり、光合成を始め、芽吹き、やがて花が咲き、実がなり、また種を落とす

→観客 or 観光客と人宿町の人々はどのような関係性を結ぶべきなのか。

あるいは、人宿町の人々、あるいはこのパフォーマンスに参加する人々を、KUが分解するための素材と考えてはどうか。

「バショ」や「コト」というものはあくまでそこに居る人や人の流れで生み出されるものであり、つまり人宿町に関わる人たちそのものが人宿町を形成する資源であると考えることができる。

人宿町を土壌とし、そこに生息する人々と分解者/仲介者であるきゅうかくうしおが咀嚼/解釈し、土壌をさらに豊かなものへと変換していく。そこに外から飛来してくる「奇妙な種」としての観客 or 観光客を植え付け、ローカルへと還元し、芽吹き、花を咲かせる。

→KUの解釈次第によって、どのような「奇妙な種」を生み出せるのかが決まる。

結論

上記の考察を経て、KU的醸すの9つの内容を改めて見直し、必要なもの必要ではないものを選定し直し、人宿町に具体的にどのようにインストールするかを再考する。

結局、結論はまだ出ていない。後は現場で考えます!

「KU的醸すin城崎」とは何だったのか
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