KU的醸すin城崎

2022.2.4

「指示書/インストラクション」とは

アートの世界では、特にインスタレーション・アートの世界ではよく知られている、指示書/インストラクションのやりとりというものがある。
絵画や彫刻とは違い、インスタレーションは装置やオブジェの配置によって生まれるその空間全体をアートと見做すため、それを再現する際には指示書/インストラクションがまさしく重要であり、それそのものが売買の対象となり得る。

About

行き詰まりを感じていた我々は、
この集団の実態を自ら理解するために、
「醸す」というキーワードを掲げ城崎という街でリサーチを重ねた。

無理をせずお互いの距離感を再確認しながら。

城崎で各々が見出した「発酵」とは。
それぞれが作品へ昇華させたものが一つの空間の中でパフォーマンスとして交わる。

まさしくインスタレーション・パフォーマンスの様相を見せるこの作品「KU的醸すin城崎」を
我々はチケットではなく作品そのもの、
「指示書/インストラクション」として販売することにした。

集団性とは何たるかを模索してきたきゅうかくうしおが醸し出した作品を、皆様へ繋ぎます。
発酵=持続性が、
分断のない世界を生み出すように。

2022年2月4日 森山未來(於 城崎国際アートセンター)

劇場関係者やギャラリー関係者の方、もしくは個人の方であっても広い空間を所持している方々、もし購入をお考えの方は是非ご一報を。
作品の設置/インストールは我々きゅうかくうしおが行います。

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Statement

9人の「醸す」

野生の菌

辻󠄀本知彦(踊り子)

近年の発酵食品(酒、味噌、醤油など)は純粋培養され、 他の菌が入らないように保存された単一の菌を増殖させ、それら用いて発酵させる。
その分抵抗力が弱く、他の菌に侵食されやすい脆い存在だ。
しかし本来は、大気中に自然に浮遊している様々な種類の野生の菌たちが各々適正の場を選ぶことにより、 それぞれの発酵は促されていく。それによって発酵した食品は腐りづらいという。
しかしながら、現代の人間世界ではそんな野生の菌が生息できる場所は非常に限られている。 正しく整えられたその「場」には、いつしか野生の菌がふわりと舞い降りるかもしれない。

club BUNKAI

矢野純子(宣伝美術)

分解すれば、分かる(解る)。
個に分けることで、他との関係性やその場が見えてくる。
集団は分解され個人に、宇宙は分解され原子に。
「繰り返す音」と「分解される映像」を酵素として、この空間を分解してみる。
身体に届く振動は、自身と自分以外を切り離し、意識の奥底に潜り込む。
と同時に、空中に広がる振動は、人を繋ぐ媒介にもなる。
聴く、踊る、見る、居る、帰る、、、今は自由にお過ごしください。
醸されるかどうかは、分けた後のお話。

納豆に湯気

村松薫(制作)

発酵と腐敗の境界線というものについて考える。
「これは腐ってしまっているのだろうか」と思うものがあった。しかし自然界における現象が「腐敗」であるか「発酵」であるかを決めるのは、ただ人間にとって有益であるかどうかのみで判断され、そこに明確な線引きはないという。だとすれば、物事の考え方次第で、それが腐敗ではなく発酵であると捉え直すことができるのではないか。私たちもうまく発酵すればきっといつかあの温泉のような湯気が立ち込めるはずなのだ。 この作品は、1人の人間が腐敗した気持ちを発酵に転換するまで書かれ続ける終わりなき記録である。

ブティック顕微鏡

藤谷香子(衣裳)

きゅうかくうしおを顕微鏡で個々を観察。
それぞれの活動主題とその方法、それにお似合いの装いを提案。
個体の集合体である集団を個の活動としてみつめてみる。 
観察資料からドレスコードを引くことで個々の活動を認識し全体としての活動の活性化を促すことができるのではないか。

まなざし

河内崇(舞台監督)

分解するだけ。
それは生産ではない 屑拾いのまなざし 街が、ゴミで埋もれませんように 1週間、同じ場所で身近に拾った屑を並べる。
いつ、どこで拾ったのか、分類を明らかにする。
色を塗ったり。置き場所を考える。組み合わせは無数に及ぶ。
私が加えたノイズの痕跡によって、物本来が持っていた力とは別のものを加える。
みかんの皮でさえも、10年、100年と人の手を渡った頃に立ち現れるオーラ。
これらの破片を前にして、私たちの生活の形を想像する。
断片が持っている誕生の秘密、どういう目的で生まれたのか。生み出されたのか。
物と私の関係を時間とともに積み重ね、未来に向けた「まなざし」を獲得する。

にぎわい

吉枝康幸(照明)

森に打ち捨てられている枯れた木の枝は一見、すでに死に絶えその役割を終えた物言わぬ物体のように見える。
しかし実際にはその樹皮を虫や菌類が食べることにより、まだまだ生物の循環の中に組み込まれている存在だ。
枯れ木が屹立する荒地に身体を潜り込ませれば、人体がさらに拡張されていくようにも見え、時には身体が枯れ木の一部にも、さらには枯れ木に食らい付く虫や菌類のようにも見える。
波打つ動脈と静脈が行きつ戻りつ、さらなる生を志向していく。
これは動物と植物を巡るエネルギー=発酵そのものを体現することを試みるパフォーミング・アートである。

分解のプロセス

松澤聰(映像)

作家は自分の言葉をこの作品の中に込めない。
代わりに鹿狩りに同行した他の三人に言葉を委ねる。
映像は同じ内容が繰り返される。しかしその度に三人三様の視点、言葉が 介入してくることにより、野生動物と人間の関わり合いに対する考え方が変容していくようだ。 鹿肉を人間同士が分かち合って咀嚼していくように。
その肉が各々の体内に存在する多様な菌によってゆっくりと消化されていくように。
そして、人間によって放置された鹿の死骸が次の日には他の獣たちに委ねられ、人間と動物それぞれが同じ命を分かち合っていくように。
この作品は、鹿狩りのとある一日にひとつの命が人間の思考の中に、あるいは 大自然の循環の中に溶け込んでいく「分解」のプロセスを追ったドキュメンタリーであり、 その志向こそが作家の言葉なのかもしれない。

『時』と『場』を整えるための小さな行為の積み重ね

森山未來(踊り子)

発酵させること、それは関わり合いが持続していくこと。
発酵=関係性の持続には「時」をどう共に過ごしていくかが重要であり、時には「待つ」という忍耐が必要なこともあるだろう。
その「待つ」ことに痛みを伴わせないためには、目の前にある些細な物事を ひとつひとつ丁寧に積み重ねていくことが重要なのではないか。
そんな積み重ねによって整えられた「場」にはやがて、 UMAMIが醸し出されるような関係性が築かれていくことだろう。
この作品は、城崎の2週間で出会ったひと/もの/こと、 そして行為を追体験することによって、「時」と「場」が静かにゆっくりと醸成されゆくことを 志向するインストラクション・アートである。

FUHAI? No,UMAMI!

石橋穂乃香(ほのちゃん)

お味噌は発酵の最中、腐ってしまった部分があってもスプーンで取り除けば良いらしい。
お醤油は発酵の最中、腐ってしまった部分も丁寧に混ぜ込んでしまうらしい。
人間関係も、腐敗してしまっていた時があっても、それをひっくるめて良くなっていってもいいんじゃないか。
その最中にいる時はそうは思えなくても、振り返ったら愛しい思い出が沢山ある。
発酵食品を何年も寝かせて発酵させるように、旨味がジワジワ滲み出てくるように。

混ざれ混ざれメリーゴーランド
もう決して腐らないように

全てが混ざったらほら、何か他のものに見えてきたりもするかもね。

「KU的醸すin城崎」

企画:きゅうかくうしお 協力:城崎国際アートセンター(豊岡市) 
記録写真:bozzo       制作協力:後藤かおり

劇場関係者やギャラリー関係者の方、もしくは個人の方であっても広い空間を所持している方々、もし購入をお考えの方は是非ご一報を。
作品の設置/インストールは我々きゅうかくうしおが行います。

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