Research vol.7
医師 杉浦由希子
医療とは利用するもの。医療が生活を邪魔しちゃっていないか考えて、生活の手助けをしている。その時その時の判断は「感じたこと」から生まれてくる。大切なのは「考えることをやめないこと」。
《きゅうかくうしお的醸す》プロジェクトの醸す人リサーチvol.7は、医師の杉浦由希子さん。長野県軽井沢町の介護サービス施設での看取りについてのワークショップに同行させていただき、医師として何を大切にしているかを伺うことで、地域の医療現場における「醸す」を探る。
2022.1.11 MON TEXT BY JUNKO YANO
看取りの心構えワークショップ
@軽井沢町の地域密着型の介護サービス施設「まさちゃん家」
〜人はどんなエンディングを迎えるのか〜
ー 人生のエンディングにはいろんなことが起こり得るけど、次の3パターンに分類できる。①突然死(脳卒中など) ②急性疾患(病気になりだんだん機能が落ちて行く) ③老衰(特に病気というわけではないけど最後は食事がとれなくなってしまう)
どれも老いが関係しているので、全て老衰と言える。最後の診断書に、広い意味での「老衰」と書くことはある。
ワークショップでは実際に看取りをした方の実例を元に理解を深めた
~本人とご家族が納得して次に進むにはどうしたらいいか~
ー「DNAR」と「人生会議」
「DNAR」は事前指示という意味。こうなったらこうするという処置を事前に決めること。
もし息が止まったら気管挿管をする・心臓マッサージをする、といった内容。
ー 最近はDNARだけではうまくいかない、ということになり、「人生会議」が出てきた。その時にどうしたいかは、その時にならないと分からない、一度決めても、その時に変わるかもしれない。
DNARはそこで決めたことしか対応できず、そこで決めてない他のことが起きたら機能しない。
ー 「人生会議」は事前指示でなく、この人はどんな風に生きていたいと思っているんだろうか、ということを常に話して考えながらいること。
この人はこう生きてきたから、きっとこっちを選択するだろう、その人のことを考えるようになることが「人生会議」。
最期を決めるのは家族でなくても良い。一緒に過ごしてて「この人なら手術を受けるだろう」「この人ならこうするだろう」ということを考える。
意識してやっているわけではなく、普段関わりが全部そうで、何が好きだ昔何してたとか、その人との会話一つひとつがその会議につながっている。その人がどう暮らしてきて今何を思っているんだろう、と話すことが全部人生会議。
たまたま来ていた家族の人と話すと、知らなかったその人のエピソードも聞けたりするので、それは意識して聞く。体調が変わった時の節目や、誕生日の祝い方とか。そんなことも聞いてみる。
看護師
人生会議は、わざわざ会を開いて何かを決めることではなく、普段の会話や自分がその人に向いた興味の中から、この人にしてあげたら自分も幸せになる、といったことを思い浮かべながら日々関わること。ひとつひとつの会話がその会議につながっている。その人がどう暮らしてきて今何を思っているんだろう、と話すことが全部人生会議。
それで、いよいよ最期となったときに、「この人ならお孫さん呼んだ方がいいんじゃないか」「仲良かったって言ってた友達に会いたいんじゃないか」とか最期までしてあげられることを考えていきたい、そう思う自分の気持ちを土台に進めて行く。
看護師
ー 最期を決めるのは家族でなくても良い。一緒に過ごしてて「この人なら手術を受けるだろう」「この人ならこうするだろう」ということを考える。その都度その都度考えていく。歩けなくなったり、声が出せなくなってきたり、食事を取れなくなったり、そういう兆候があったら、大事な時が近づいているのかなと思ってもらえれば。
宣伝美術
病院には行かないと決断した方を最期までサポートしたこともある
ー 医師であっても同じ。本人の意思で決める。
訪問している方の中で、絶対に病院に行きたくないという方がいた。急にごはんが食べられなくなって、多分お腹にガンがあったんだと思う。病院に行かないと治らない状態だった。
でもご本人は絶対に病院に行かないと言って、旦那さんを支えながら在宅での看取りをしたことがある。
ー 病気を倒すという意味の医療の選択としては病院に無理やり入れるのが正しいのかもしれないけど、その方は病院には絶対行きたくなかった。旦那さんと二人で暮らしていて、もし入院したら、コロナで面会もできなくなる、自分にとって居心地の良い場所にしていた自宅から離されて戻れなくなる可能性もあった。それで病院には行かないという選択をされた。
それを一緒に、できるだけ穏やかに過ごせるように、サポートさせていただいた。
それは悩ましいケースだった。病院で検査して手術したら良くなったかもしれない。訪問診療は検査もできないから、葛藤しながらだけど。
ー 自分がしたいことは「本人がしたいことを支えること」なので、それがベストだと思ってやってる。その都度その都度、みんなベストを尽くして判断していると思う。
ー 悔しいなと思うのは、本当はこの人は家で過ごしたいんだろうけど家で過ごせない時。
家族や病気の状況がある中でご本人も納得して病院に行く選択をする時もあり、「家で穏やかに過ごしている時は表情もとっても良かったのに」と思うことはある。でもそれもご本人が家族と話して納得して病院に行くことにしたのであれば、そこに送り出したいなと思う。
ー 私の思いも基本的に伝える。「家にいた時のお顔が良かったから、家に居てほしいなぁと思うんですけど」と伝えて、それでそうじゃない選択肢をえらばれたとしても、その人たちのベストの回答なんだな、と思えたら、そこまで悔しい思いにはならない。
宣伝美術 矢野
ー 病気や老いをやっつけるということが目的ではない、それは病院。
病院の中ではなく、生活の中にいる。死も日常の中に本来あるもの。最近、医療として死が切り離されているところがあるけど、本来は同じ場所にある。
もともと、生まれる場所と生きる場所と死ぬ場所は、同じ場所であったはず。
それを日常に取り戻して行くためには「本人を主語にする」ことが今大切だなと思ってる。
本人がどう生きたいから、そのために医療をどう利用するのか、という感じ。
ー 例えば病院だと「酸素を90%以上にするためにどう過ごすか」という考え方。それだと、できるだけ動かないで、お風呂は早くして、とどうしても管理っぽくなる。窮屈だな、生活っぽくないな、となってしまう。
そうではなく、「この人はこういう時こう過ごしたいから、こういう風に酸素を利用しよう」という考え方に自分自身がシフトした。
映像 松澤
診る人と一緒に再構築している
ー もともと病院にいるのが居心地が良くないな、と思っていて、言語化するとそういうことだったのかな、と思う。
今の症状をどうにか無くすためにどうするか、というのが病院の目的になっている。
在宅診療に行くと、薬とかではもうどうにもならないということも多い。その状況とともに生きていくってどういうことだろう、と。それをその人たちと構築しなおしていく場面もあったりする。
映像 松澤
医療が自発的な成長を邪魔していないか
ー 子供達も診ていて、その子たちが医療に邪魔されないように生活する助けをしている感じ。どうしても「守っていかなきゃ」みたいな存在になってしまう。でもその分「ここでこんなことができたはず、この年齢ならこんな交わりがあるはず」ということが、医療という傘に守られるがゆえに少なくなってたりする。
なのでその子自身が本来持ってる力を引き出せるように、医療が邪魔しちゃってないかな、というのを考えながらやってる。
映像 松澤
宣伝美術 矢野
その都度の判断は「感じたこと」から生まれる
ー 私も概念を崩されてここに来た。その時その時の判断は「感じたこと」から生まれてくるから、その点でも医療はアートに似ているのかもしれない。
ー うちは訪問で回る件数も外来件数もすごい少なくて、一般的な診療所なら午前中20人とか診るところを、予約制でひとり30分。あり得ないくらい、めっちゃ時間かけてる。
だからこそ、その中での一つひとつの会話が「人生会議」だなと思ってやっている。その人の価値観や最期までのつながりを見据えて、外来でも人生会議を実施していると思っている。
宣伝美術
今回の醸す人 杉浦由希子(医師)
大阪府出身。小児の専門病院での勤務を経て、現在ほっちのロッヂ(長野県軽井沢町)に勤務。医師として訪問診療・外来診療を担当する。