KU的醸すin城崎」とは何だったのか

text by Mirai Moriyama

17年「素晴らしい偶然をあつめて」公演後からほぼ現行メンバーでの活動をスタートしたきゅうかくうしお。その際に立ち上げたコンセプトが「誰かがイニシアチブを持つことなく、全てのメンバーがフラットな関係で作品を制作する」といったものだった。そんなプロセスを経て、19年「素晴らしい偶然をちらして」を上演。その後2020年には、Covid-19のパンデミック下でオンライン作品「きゅうかくうしお YouTube Live Performance」を生配信、千葉の山を切り拓き「地鎮パフォーマンス」を撮影、配信する。
そんな中、音響の中原楽が脱退。コミュニティの在り方、創作の上でのコミュニケーション方法を模索し続けた結果、コミュニケーションに疲弊してしまったきゅうかくうしおがいた。

そんな中、きゅうかくうしおは豊岡市にある城崎国際アートセンターで2週間のアーティスト・イン・レジデンスを敢行する。テーマは「醸す」とした。
コロナ禍で人との交流や物流が停滞した結果、さまざまな場所で物理的にも精神的にもローカリゼーションが進行した。グローバリゼーションで全てが高速で進行する世界から一転、自分たちがいる場所に立ち返り、そこで何が起こっているのかを見つめる時間へと唐突に移行した。
そんな時間は一見停滞しているように見えて、実は水面下で発酵しているのかもしれない。そんな推測と、きゅうかくうしおの疲弊や停滞がそんな発酵という概念によってポジティブに変容していくかもしれない。そんな願いも込めて。

濃厚接触者が出たことで人前での公演は叶わず、インストラクションという形で作品を発表するに留めた「KU的醸すin城崎」。改めてこれは何であったのかを検証する。

まずは全員の作品コンセプトを確認していくにあたり、あくまでアウトプットの内容からではなく、各作品のステイトメントから検証していく。

・野生の菌 辻本知彦(踊り子)パフォーマンス

→整えられた場に対して、適性のある菌が舞い降り、発酵を促していく。つまりその場の整えられ方などによって、その菌の性質や発酵の具合は異なっていくという、行為に特化したもの

・club BUNKAI 矢野純子(宣伝美術)音楽/プロジェクション

→四つ打ちという音と振動、その均一な時間性の中で、そこに混ぜ込まれたものが分解されていく。つまり、これは発酵が促される前の段階であり、とにかくその中で出会ったものたちに分解を促す。そういった場を提示している

・納豆に湯気 村松薫(制作)テキスト

→個人的な物語としてくすぶっている状況、停滞している状況を書き記している。
自分の目線では停滞→腐敗していると思われていたものが、客観的に見ると実は発酵になっているのかもしれないと思考する、精神性において腐敗と発酵の両義性を見出そうとしている

・ブティック顕微鏡 藤谷香子(衣装)立体

→藍染、パンやビール、酒や味噌や醤油の生地を作る発酵職人のように、現場を客観的に判断し、発酵へと促すためのレシピの提示となる。城崎においては、物理的な提案は行われなかったため、ここでは提案に留まる

・まなざし 河内崇(舞台監督)立体

→腐敗や発酵に至る前の単なるごみ。それは生ゴミかもしれないし、あるいは鉄屑かもしれない。それらに、資源としての価値を見出す。分解され、発酵に置き換わっていく前のそれぞれを見つめる

・にぎわい 吉枝康幸(照明)インスタレーション/パフォーマンス

→人間の身体を朽ちていく木の枝や、分解を担う菌類に見立て、同時に人間自身も何かしらを分解し発酵へと促す存在として映し出す。分解される存在であり、分解する存在。身体性において分解そのものを提示している

・分解のプロセス 松澤聰(映像)ドキュメンタリー映像

→物理的に、あるいは精神的にひとつの命が分解されていくプロセスを捉える

・「時」と「場」を整えるための小さな行為の積み重ね 森山未來(踊り子)インストラクション

→場を整え、時間を要する。場と時間の積み重ねによって、自ずと発酵が促されていく。腐敗と発酵の差異は自然にとってはどちらもただの反応で違いはない。あくまで人間にとってポジティブな発酵というものを求める、祈りにも似た行為

・FUHAI? No, UMAMI! 石橋穂乃香(ほのちゃん)写真

→味噌の生成と同じように、人間集団の営み/堆積の中でも、良い部分や悪い部分があってもそれを混ぜ合わせてしまえば腐敗であろうが、発酵であろうが何かしらになるという視点。あるいはポジティブであることが、発酵を促す大事な要素のひとつであることも示唆している

大きく分けると、発酵に至る前の分解を表す作品と発酵を表すもの、さらには時間性を表し、実際に分解/発酵を表現しているものと、物理的にあるいは象徴的に分解とは何か、発酵とは何かと考察する作品に分けられるのではないか。

あるいは行為と視点、分解から発酵/腐敗という時間性でも分けられるかもしれない。

 

上記の分布図でいうと、「精神性」に配置されていればいるほど「視点」に、「身体性」に配置されていればいる方が「行為」に重きが置かれている印象。左から右へ分解から発酵への時間性を感じさせる。しかし視点に重きを置いている作品に関しては、そもそも時間性が存在していない可能性がある。

ともかく「醸す」というワードを取っ掛かりに、各々がさまざまな考察の中、それぞれにアウトプットを試みている。

さらに城崎での滞在中、毎朝手を繋いで街中を散歩するという日課を課していた。

それを観客に見せることは叶わなかったものの、最終的にはその手つなぎをパフォーマンスに取り込む予定で、その行為を映像にも収めている。

コミュニケーションに疲弊していたきゅうかくうしおが、なぜ身体の接触を自らに課していたのか。

コロナ禍の最中、対面での交流を自粛せざるを得なかった我々は、オンライン上での言語や想像のみでのやりとりが続いた。その結果、必然的に身体的な交流が激減した。

さらに手指の消毒や、マスクの着用により人それぞれが持っている常在菌の交換も不可能になった。

「醸す」をキーワードに発酵や腐敗の関係性、その定義づけをそれぞれに考察しつつ、とにかく手を繋ぐことで混ぜ合わせていく。

コロナ禍もあっただろう、そもそも日本人は身体を接触するコミュニケーションが希薄なのもあるだろう、きゅうかくうしおがコミュニケーションに疲弊していることもあっただろう。いずれにせよ最初は触れるということに抵抗があったであろうメンバーたちは、次第に慣れていく。10人もの人間が手を繋いで行動するということはそもそもが異様であり、個人の行動が制限されてしまう。それが慣れてくると、個人の意識も保たれてはいるが集団として動くことに対して思考が働かなくなる、あるいは働かせる必要がなくなっていく。つながっていることがある種、当然のものとして受け入れられるようになっていく。

この受容するという行為は、集団として生きていくために必要な行為だろう。

互いを受容していくための個人の裁量や距離感の違いはそもそもあるだろうが、城崎では手を繋ぐということでその個人差を多少は強制的に排除してしまったのかもしれない。だが、ただ強制的だったわけでもないと思える。この期間に「醸す」ということをテーマにそれぞれがリサーチをしていたということは重要なポイントになるのではないか。

その行為や関係性は発酵を生むのか、腐敗を生むのか。そもそも発酵が善で、腐敗が悪なのはあくまで人間にとってなのであり、自然界全体で言えばそこにジャッジはない。

それは発酵なのか、腐敗なのかを概念的に考えるとすれば、それは見方によって変わる可能性があり、さらにいうと、発酵であれ腐敗であれ、いずれも最終的に分解を続けた結果、無機物に戻っていく。そしてそれが植物の養分となり、また食物の連鎖を繰り返す。ただそれだけに過ぎない。

そのようなリサーチ内容を踏まえて手つなぎ散歩をする時、個人の判断や価値観というものと他者との関わりのバランスは変容していくだろう。

「醸す」というワードをもとに、城崎での滞在&リサーチを行った結果きゅうかくうしおが共有できた発見はおそらく、集団として、コミュニティとして私たちが「待つ」こと、「受け入れること」の意味を知ったということなのではないか。

他者の主張や考えをどのように受け入れ、取り込み、コミュニティを形成するに至るを見届けるのか、あるいは誘(いざな)ってくのか。

きゅうかくうしおが集団としてそれができるようになった、とは言い難いだろうが、その道筋を発見したとは言えるのかもしれない。

「KU的醸すin城崎」のインストール方法とストレンジシード静岡2023への接続方法に関する考察
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